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終戦直後の米軍機墜落事故 現場で回収の機関銃を展示へ 戦争の教訓として/台湾

2025/09/10 19:18
国家軍事博物館に展示されることになる「三叉山事件」墜落機の機関銃(読者提供)
国家軍事博物館に展示されることになる「三叉山事件」墜落機の機関銃(読者提供)

(台東中央社)第2次世界大戦終結直後の1945年9月10日、台湾上空を飛行中だった米軍機が、悪天候により東部・台東の三叉山に墜落し、搭乗していた25人全員が死亡する事故が起きた。救助に向かった日本人を含む捜索隊が遭難して26人が死亡する事故も発生し、台湾では二つを合わせて「三叉山事件」と呼ばれている。最近になり、墜落機に搭載されていたとみられる機関銃が回収され、台北市で建設中の国家軍事博物館に展示される見通しとなった。

▽回収された機関銃、戦争の教訓に

事故を起こした米軍機には、乗員5人と旧日本軍の捕虜となっていた米国人11人、オランダ人4人、オーストラリア人5人が搭乗していた。墜落を受けて出動した捜索隊は、台湾原住民(先住民)族アミ族12人、同ブヌン族1人、同プユマ族1人、平埔族1人、閩南人1人、客家人1人に加え、日本人警官2人、日本人憲兵7人で構成されていたとされる。

事件は同年10月24日付の台湾新報が300字にも満たない記事で報じたのみで、その後歴史に埋もれた。だが98年に台東県関山鎮が鎮史をまとめる際、調査でこの事件に関する言及があったことから再び脚光を浴び、2001年4月には慰霊碑が設置された。

墜落現場には今も墜落機のものとみられる車輪やエンジン、水筒、外板などが残る。国防部(国防省)は8日、機関銃4丁を回収。博物館での展示を通じ、第2次世界大戦の教訓を伝えるとしている。

▽80年たっても残る謎

だが事件を巡ってはいまだに不明な点がある。98年に調査を実施した中央研究院台湾史研究所の施添福兼任研究院は、当時救助に来た米軍は、撤収時に「3年後に人員を派遣して犠牲者の遺体を回収する」と伝えていたものの、その後三叉山を再訪した記録が見つかっていないと指摘する。

三叉山の麓の集落に住む96歳の男性は今年6月、中央社の取材に、救助隊は捕虜の遺体を現地で仮埋葬し、1年後に山奥のリト(利稲)集落のブヌン族に回収させたと年長者から聞かされたと語ったが、リト集落に住む人々にその記憶はなかった。

リト集落に住み、父親が墜落機を発見したという余阿勇さんは、父親と祖父が狩りの最中に爆発音を聞いて現場に駆け付けると、機体はばらばらになり、「地面に落ちた人たちはみんな死んでいた」と証言していたと語る。当時は衣服が不足していたため、遺体の服を脱がせて集落に持ち帰り、その後父親が日本人警官に墜落を伝え、救助活動が始まったという。

当時をよく知る余さんだが、集落の人が墜落機の残骸を売ろうとしたことがあったとしつつも、遺体が麓に運ばれた記憶はないと語る。

その一方で、米国側の調査により、50年にミズーリ州の墓地に16人の米軍人の遺体が埋葬されていたことが判明。どのような経緯があったかは不明のままになっている。

▽頼総統も事件に関心寄せる

頼清徳(らいせいとく)総統は今年8月15日、フェイスブックで連合国や枢軸国の違いなく、危険を冒しても被害に遭った見知らぬ人を助けようとして事件に言及。9月10日にも再び事件に触れ、「人道救助の物語は、団結してあらゆる権威主義の野心を拒み、自由民主主義と地域の安定を守ってこそ、平和を築けることを教えてくれる」との認識を示した。

(温貴香、盧太城/編集:齊藤啓介)

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影片來源:軍聞社
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