戦前からの建物が多く残る台北市大同区の大稲埕エリア。乾物屋などが立ち並ぶ迪化街は、外国人観光客も多く訪れることで知られる。そんな大稲埕の漢方薬問屋にいる「猫店長」が最近、インターネット上で話題を呼んだ。実は、地域が2021年に「店猫文化」を推し出した時、陰の立役者となった男性がいる。地域の発展を促進する「大稲埕創意街区発展協会」副理事長の、呉孟寰(ごもうかん)さんだ。
43歳の呉さんは、大稲埕にある廟(びょう)、台北霞海城隍廟のPR担当も務めている。地域で開催されるイベントではいつも呉さんの活躍する姿が見られ、ある時には司会を、またある時にはガイドを行う。イベントの企画を担当することも多い。呉さんと一緒に大稲埕を歩くと、行く先々の店の人々にあいさつをしていた。
大稲埕の一角を占める永楽里の林宗穎里長(町内会長に相当)は、自身の方が年齢は上だが、呉さんのことを「孟寰兄さん」と呼んでいると笑う。呉さんは熱心で、相手が観光客だろうと、団体だろうと、海外からの来賓だろうと接待に協力し、地域の公共事務ではよく見かける顔にもなっていると語った。
「たぶん、普段の人付き合いが悪くないんでしょうね」と自身について語る呉さん。台北出身だが小さい頃は大稲埕には縁がなかった。台北の繁華街・西門町に初めて行ったのも17~18歳くらいの頃だったという。21歳の時、キリスト教青年会(YMCA)で英語を勉強している時に、台北霞海城隍廟の第6代管理人、陳文文さんに知り合ったのが、大稲埕とのきっかけになった。
「文文姉さんはクラスで一番年上の学生でした。廟を改革しようとして、英語を学びに来ていたんです。文化系のイベントにずっと興味があった私は、文文姉さんからいろいろなことを聞き出しました」。陳さんは当時すでに、観光の視点から廟文化を広めようとしており、しかも縁結びの神様として知られる「月下老人」を目玉にしようとしていたという。その時、ちょうど春節(旧正月)前に大稲埕が盛り上がる「年貨大街」(歳の市)があったので、呉さんはアルバイトとして廟に雇ってもらい、少しずつ廟への理解を深めていった。
アルバイトをしたのは2003~04年ごろ。呉さんの目に映った大稲埕は、古い建物の扉が固く閉ざされ、薄暗い雰囲気が漂い、長居したくない場所だった。その後、呉さんは兵役を終え、旅行業界でガイドをしたり、保険業界で営業をしたりと職を転々とした。
保険営業の仕事をやめた頃、文文さんに再び廟の仕事に誘われ、08年に再び大稲埕で働き始めた。廟のPRイベントを考えるだけでなく、ユーモアある方法で外国人に廟の文化を紹介した。例えば、線香を携帯電話に例え、火を付ければ神に電波が通じ、言葉を口に出す必要もないといった具合だ。
廟の仕事の関係で、呉さんはさまざまな地方事務にも関わり、古い建物の再生や、地場産業の変化を見届けてきた。地域の住民や店舗が2016年に創立した大稲埕創意街区発展協会にも加入した。自らが担える役割について、呉さんの考えは明確だ。それは「文化の特色は何か、他者に素早く伝えること」だという。
「店猫」の流行に話を戻すと、大稲埕の漢方薬店や乾物屋では、猫を飼えばネズミの被害を抑えられると代々考えられてきた。以前この地域に住んでいたカメラマンの菜菜子さんが多くの店猫を撮影し、雑誌からの依頼を受けて寄稿した。呉さんによれば、その際協会はすぐにコラボレーションを提案し、21年に「大稲埕ネコ写真展」を開催。24年には老舗菓子店の李亭香と共に「店猫地図」を作り、店猫文化をより印象的に打ち出した。
今人気となっている猫の子供時代の写真を菜菜子さんがかつて撮影しており、これがネット上で話題を呼んだ。呉さんはここ数年の活動について、その当時は注目されなかったかもしれないが、今振り返れば全て文化の蓄積になったと語る。「私たちの廟の月下老人はよく海外に出かけ、さまざまな地域と連携したり、文化交流したりしています。私も同じような役割を果たし、人々をつなぎ続けたいのです」と話した。