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文化+/先人の雄志とロマン 台湾の未来の道を照らした台湾文化協会<文化+>

2022/01/07 17:01
台湾文化協会第1回理事会の記念写真。前列左から3番目が蒋渭水、左から4番目が林献堂(明台高中霧峰林家花園林献堂博物館提供)
台湾文化協会第1回理事会の記念写真。前列左から3番目が蒋渭水、左から4番目が林献堂(明台高中霧峰林家花園林献堂博物館提供)

もし「台湾史」上のメイデイ(五月天)はどのグループか考えるとすると、それは1921年に設立された台湾文化協会にほかならないだろう。最大で1000人余りの規模の団体だったが、台湾全土で行った講演の傍聴券はすぐに配布完了してしまうほどの人気を博し、「私は台湾人である」というアイデンティティーを掻き立てた。映像を上映して衛生習慣や科学の新知識を紹介するほか、知識啓発のための機関「読報社」を各地に設置して当時の世界の思想の流れを持ち込み、台湾の知識水準向上に努めた。

台湾文化協会は「結成」から後の「ソロデビュー」(分裂)までわずか5年ほどしかなかったが、100年前の台湾にまいた自治や自由を追い求める民主主義の種は今でも台湾に影響を与えている。

※本記事は中央社の隔週連載「文化+」の掲載記事「前輩的豪情與浪漫 文協一百年照亮台灣未來之路」の一部を編集翻訳しました。

▽ 台湾文化の低落に堪えられず メンバーが先陣を切る

国立台北教育大学台湾文化研究所の蔡蕙頻兼任助理教授(助教)は100年前に誕生した文化協会に「台湾史上のモンスターグループ」の脚注を付ける。彼らは行く先々で人々から歓迎され、その光景はまるで「スターの追っかけ」のようだった。「文化協会を企業に例えるなら、家の資産で台湾の向上を支援した林献堂は大株主、蒋渭水は外部への宣伝を担当する営業ディレクターといったところでしょうか。みな分業で力を合わせていました」

国立台北教育大学台湾文化研究所の蔡蕙頻兼任助理教授(助教)
国立台北教育大学台湾文化研究所の蔡蕙頻兼任助理教授(助教)

文化協会のメンバーの中には、裕福な家庭の出身者もいれば、卒業証書の学校名を読み上げるとみなを驚かせるほどの学歴の持ち主、非常に素晴らしい職業に就いている人などもいたと蔡氏は話す。「ですが、豊かな生活を送れるはずだった前途有望な青年たちは、自分たちが手にしていた収入源を自ら手放したのです。それは全て、みんながご飯を食べられるようにするためでした」

「台湾文化協会のメンバーの多くは地主や知識人でした」と蔡氏は語る。庶民が文字を読めず、文明や世界の重大事を知らないことが忍びなく、文化協会は「読報社」を創設した。なるべく早く知識を啓発するため、各地で「文化講演」を開いたり、「美台団」による映画の上映を行ったりした。植民地の台湾人が悪い法律によって縛り付けられ、ひどい待遇を受けていても気付かないことに我慢ならず、「台湾議会設置請願運動」を推進した。それは、少なくとも予算と法律の面で総督の専制政治に均衡を保ちたいとの願いがあったからだった。「彼らは台湾の文化を低落させたくなかったのです。一日でも、少しでも、なるべく早く台湾文化の水準が向上することを願っていました」

この表から、台湾文化協会のメンバーの大部分が地主か知識人だったことが分かる(呉家昇撮影)
この表から、台湾文化協会のメンバーの大部分が地主か知識人だったことが分かる(呉家昇撮影)

▽ 林献堂のひ孫 曽祖父の心の内を文字で記録

林献堂のひ孫である林承俊・明台高校副校長は、長年にわたり曽祖父の生活哲学や心の内を研究してきた。2021年に出版した書籍「旅途—三老爺林献堂的生活日常」では、林献堂の日記に記された足跡を林さん自らがたどり、体験し、晩年の言葉や思い、日常を探った。学術界では林献堂研究において必読の一冊だと評されている。幼少期の林さんは旧正月などの行事で一族で集まっても、寝転んでゲームができないと癇癪を起こすような子供だった。それが今では、祖先を祭る重責を担い、家族の伝統文化を後代に伝え継ぐ手伝いをしている。

先祖代々の家は他の家より何倍も大きく、骨董品も収蔵していた。名家の一員ではあるものの、一族の名声によるプレッシャーを感じたことはない。「逆に曽祖父の恩恵にあずかっているように感じています。曽祖父の後代であることを光栄に思っています」と林さんは語る。中学の歴史の教科書の「台湾民族運動」に関する記述で、「林献堂、羅福星らが積極的に台湾抗日運動に携わった」という短い一文を発見した時、やんちゃだった若き日の林さんは「家族の目上の人はホラを吹いていたわけじゃなかったのか」とにわかに気付いたのだという。

林献堂がかつて暮らした台中・霧峰の「景薫楼」。建物内には林献堂の生活の面影が残されている(吳家昇撮影)
林献堂がかつて暮らした台中・霧峰の「景薫楼」。建物内には林献堂の生活の面影が残されている(吳家昇撮影)

曽祖父を研究することは完全に「趣味」だと語る林さん。「子供の時、私のパソコンには『ひいおじいちゃんの食事』と題したフォルダがありました。曽祖父についてしょっちゅう聞かされていたからです。家族や郷土史研究者から聞くこともあれば、『口述歴史の中で見た』と言って私に話してくれる人もいました。機会があれば曽祖父の足跡をたどってみたいと思い、私はそれらの話を記録していました」

▽一族の味は「フカヒレスープ」と「潤餅」

林一族の食卓で特徴的なメニューは「フカヒレスープ」と「潤餅」(もち米の皮で野菜や肉を包んだもの)だったと林さんは振り返る。それは曾祖母の楊水心が伝えたレシピで作った料理だ。2つの料理にはどちらも炒めたタケノコを入れるのが林家流だ。

「うちの潤餅には冬竹の子が入っていて、スープにも冬竹の子を加えます。ある時、生態作家の劉克囊さんにお会いした際にこの話をすると、『林家のお嫁さんはすごいですね。冬竹の子を切って炒めて2つの料理を作れるんですから』とお褒めの言葉をいただきました」

林さんは研究を通し、林献堂は柔軟性がある性格で、食べたことのないものは積極的に試し、文句を付けることもあまりなかったことに気が付いた。人助けもいとわなかったことは、日本統治時代の作家、張文環によって記されている。記述によると、張がある早朝、林献堂と散歩をしていると、酒に酔って焦点が定まらない目つきの年老いた農家に遭遇した。「ニワトリが盗まれた」と不満をもらす農家を林献堂は我慢強く励まし、苛立った様子は一切見せなかった。

後に林献堂の誕生日の際、年老いた農家が酔っ払いながらやって来ると、林献堂は熱心に迎い入れ、席に座らせた。するとこの農家はあろうことか、興を添えようと拳法をやろうとしたのだった。周りの空気が張り詰めかけたその時、林献堂は「拳法ではなく、腕相撲をしようではないか」と提案し、すぐに農家を負かした。その後何杯かの酒を交わすと、農家は満足して帰っていったという。

林献堂のひ孫の林承俊・明台高校副校長(呉家昇撮影)
林献堂のひ孫の林承俊・明台高校副校長(呉家昇撮影)

林さんは、林献堂はテレビで普段描かれているような、政治運動のせいで毎日ふさぎ込んでいたような人物ではなく、実は生活を楽しんでいたのだと話す。なぜ林献堂は台湾総督府に捕まらなかったのか聞かれることがよくあるが、ちまたで噂されるある一説があると林さんは明かす。ある人が同じ質問を林献堂に直接投げかけると、林献堂は「私が捕まったら誰がみんなを助けるんだ」と答えたのだという。

資料によれば、1923年に起きた「治警事件」で多くの仲間が投獄されると、林献堂は弁護士に助けを求めたり、自発的に証人を探したりと積極的に奔走し、仲間を救ったのだった。

「『千金之子,坐不垂堂』(富がある人は自分を大切にし、危険を冒すようなことはしない)ということわざは最もだと思います。曽祖父の安全は彼一人だけの問題ではなく、家族全体と仲間の問題でもあるのですから。自分の安全がなおさら重要なのです」と林さんは話す。林献堂の慎重さは、お付きの秘書が「本当に気が小さいのではないか」と疑うほどだったという。「でも曽祖父が外に見せている独立運動に対する態度や策略、気概から、彼の戦々兢々とした様子には理由があったのだと分かるのです」

文化協会の設立から100年を迎えた2021年。各県市で政党を問わず、みんなこのことに関心を向けていたと語る林さんは「このような雰囲気がずっと続いてほしいと強く願います」と期待を寄せる。

今の社会は昔より進歩した。だから林献堂や蒋渭水のような英雄が出てくる必要はないと林さんは話す。「全ての人に選挙権が平等にあります。みながよりよい公民の素養を持ち、台湾の未来に最も寄与すると自身が思う候補者を選べば、台湾はさらに進歩することでしょう」

(趙静瑜/編集:名切千絵)

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