小説「台湾漫遊鉄道のふたり」(台湾漫遊録)で全米図書賞の翻訳文学賞を受賞した作家の「楊双子」こと楊若慈さん。11月に米ニューヨークで行われた同賞の授賞式で、社会運動家、蔡培火(1889~1983)の言葉を引用し「台湾は台湾人の台湾である」と述べて話題を呼んだ。楊さんは2日、中央社のポッドキャストチャンネル「文化プラス」のインタビューで、この言葉の背景や「台湾自身の物語」を書く理由について語った。
一人のアマチュア鉄道ファンとして、台湾の鉄道旅行を題材にした小説を書いたという楊さん。過去の台湾は、人々の心がばらばらで、まとまりがない状態だったとした。清朝時代に起きた、中国大陸から移り住んできた人々の出身地に起因する衝突がエスニックグループ間の分裂を生んだことや、度重なる外来政権の出現は、台湾の人々に団結の重要性を意識させたと説明。だが台湾を南北に貫く中央山脈や、東西に流れる川の流れが地域を分断していたため、団結は容易なことではなかったと話す。
1908年に北部・基隆から台北を経て南部・高雄まで鉄道がつながったことで、少しずつつながりが生まれ始めたとする楊さんは、それから10年少し経った21年、台湾人がようやく自分たちが一体のものであると捉え始めたと語る。専門家もこの年は“抗日武装”から“文化抗日”への転換の分岐点だとみているといい、このような背景から蔡培火も「台湾は台湾人の台湾である」と発表できたのだと述べた。
台湾では、2008年に「野イチゴ学生運動」、14年に「ひまわり学生運動」があった。「野イチゴ~」は中国の対台湾窓口機関、海峡両岸関係協会の陳雲林会長(当時)が訪台したことが発端。「ひまわり~」は中国とのサービス貿易取り決めを巡り、学生らが撤回を求めて立法院(国会)を占拠した。
楊さんは、これら二つの学生運動に衝撃を受け、「台湾自身の物語」を書くことに決めたという。そうしなければ、人生のこれまでの30年と同じように、ずっと“もや”の中をさまよい続けることになっただろうと語った。「台湾漫遊録」も、台湾自身の物語を執筆する計画の一部分なのだという。
「楊双子」は元々、双子の姉妹である楊若慈さんと楊若暉さんの共同ペンネームで、主に姉の若慈さんが創作を、妹の若暉さんが歴史考証や日本語の翻訳を担当していた。だが若暉さんが2015年にがんでこの世を去った後は若慈さんが楊双子の名義で執筆をつづけている。楊さんは「妹の生前の協力にとても感謝している」と語り、若暉さんが14年に立ち上げた「台湾史研究資料庫」を今でも活用しているおかげで「妹と手を取り合って作品を完成させているように思う」と明かした。