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文化+/古地図から見る 台湾は百変化の神秘の島だった<文化+>

2022/05/17 18:36

台湾は地図上でどのように区分されるのか。それは人によって意見が異なる。そしてそれらの意見はまだ共通認識や解答が得られていない。この数十年間、このような混乱は当たり前のこととして見なされていた。

だが、複雑な近代史を横に置き、各国の地図上に登場する台湾の姿を振り返ってみると、驚くべきことに、台湾はこれまでずっと、形をさまざまに変えた神秘の蓬莱仙島だったことが分かる。ある地図では、3つの島が連なった形であったり、別の地図では山脈によって東部が隔絶された島として描かれたりしていた。これらは全て台湾を指しているのだが、地図上の正解では全くない。

台湾が今でも自身の立ち位置を探っている今日、古地図からは慰めや理解を得るだけでなく、歴史から未来を知り、古地図の楽しみをそこから掘り起こすことができるのではないだろうか。

※本記事は中央社の隔週連載「文化+」の「翻開古地圖 台灣原來是個百變神秘島」を翻訳編集したものです。

▽ 人づてに伝えられた「蓬莱仙島」

実は以前から、これらの古地図を研究し、その中にある宝の地図のような暗号を解読し、そこから台湾の姿を描き出していた人々がいる。

国立故宮博物院書画文献処の盧雪燕研究員は、古地図上の台湾は2つの定義に分けられると語る。1つは文献資料が不足しているものの、小さな島の位置や描き方から台湾のように見える古地図、もう1つは鶏籠(現基隆)や打狗(現高雄)など台湾の地名を島の上に確かに表記しているもの、あるいは島に台湾の地名を記している古地図だ。

盧さんによると、1つ目の定義ならば早くも北宋(960~1127年)時代の中国の地図に台湾が出現していた。「中国東南地帯の小さな島々にはよくいくつかの迷信があります。実は台湾は当時、アジア内のグループにとってはよく知られていない存在でした。現在の観点から北宋の歴代指掌図(歴史地図帳)を見ると、『大琉球』あるいは『小琉球』と書かれている島は台湾かもしれません。ですが、それも可能性でしかありません」

当時の台湾は航海士にとって、神秘のベールをまとった秘境のようだった。島の形はこのように人づてに伝えられ、次第に形作られていった。

盧さんは例を挙げる。古代人は台湾を伝説上の蓬莱仙島に例え、海に仙山があると考えていた。あるいは、台湾に近い福建の人は島に上陸したことがあり、自分の経験を他の人に聞かせていた。このように度重なる語り継ぎや言い伝えによって台湾のイメージは複数の形を見せるようになった。それと同時に、分からないからこそ古地図において台湾は通常、簡単に描かれるのみとなっていた。

誤情報に頭を悩ませているのは現代人だけではない。当時の航海士が伝え聞いていた島の情報も、今から考えると信じられないような誤りが多かった。例えば、明朝末期の「皇明大一統総図」は、台湾が小さな島が3つ連なった形で描かれていた。北の島には「雞籠澹水」(現在の基隆と淡水)、中央の島には「北港」、南の島には「澎湖」と書かれており、それらの地名から、明末期までに台湾の存在が確かに知られており、地図に描かれているのが間違いなく台湾であることが分かる。

▽ 大航海時代、「I. Fremosa」が世界の舞台に

16世紀、地理的大発見のブームが西洋を席巻した。ポルトガルやスペイン、オランダがアジアを探索し、中国や日本などと貿易を開始した。

国立台湾博物館の呉佰禄アシスタントリサーチャー=王騰毅撮影
国立台湾博物館の呉佰禄アシスタントリサーチャー=王騰毅撮影

当時の中国は民間人が海に出ることを禁じる「海禁」を実施しており、完全には開かれていなかった。そのため、海外と貿易を行う際には第三国の中継地点で物資を交換する必要があり、「彼らが最も近い場所で思い付いたのが台湾でした」と国立台湾博物館の呉佰禄アシスタントリサーチャーは語る。中継地点の地理的優位によって国際貿易における台湾島しょの重要性が向上したことで、台湾について理解しようとするエネルギーが各国間で生まれ始めた。

現時点で分かる限りでは、西洋の地図で台湾が最初に登場したのは、1554年にポルトガル人のロポ・オーメンが手書きで製作した世界地図だ。台湾はこの地図上で1つの島として描かれ、「I. Fremosa」と記された。

大航海時代、海上の全てを把握している人がより多くのカードを握ることができた。航海士たちの発見を載せた地図は、高度な機密情報となっていた。古地図は商業利益に関わるものであり、国家の利益にも関わっていたため、国家は情報を封じ、地図は特定の人しか見られないものとなっていたと呉さんは指摘する。

西洋諸国が製作した台湾の地図は、彼らが実際に目にしたものだけを情報源としているのではなく、近隣諸国から多くの情報を吸収していた。例えば、3つの島として台湾が描かれた地図のイメージは中国の認識が西洋に広がったものである可能性が高いと呉さんは指摘する。そのため、オーメンが台湾を単一の島として描いたのと同じ時期に、台湾を3つの島として描くスペイン人がいたのだ。

それがなくてはならないものだった時代、地図は貨幣や貨物よりも価値があった。地図があれば航海士は危険を冒すことなく、確かな方向に進むことができた。各国は貿易を行うだけでなく、把握している地図情報も状況に応じて交換していた。

当時の西洋の地図の最も重要な機能的目的は航海だった。どう航行すれば、どの季節に航行すれば安全なのか、海上に波はあるのか。もし地図に書かれている情報が事実ならば、薄い数枚の紙が多くの命を未知の海難から逃れさせることができる。そうなればやはり、本当に貨幣や物資より価値があったと言えるだろう。

オランダ人やスペイン人は大航海時代を背景に、台湾の南北に政権を樹立し、土地に深く入って探索するのに伴い、支配地域の切図をそれぞれ描いた。このうち、ヤコブ・ノーデロースが1625年に手書きした地図が、現時点で判明している限りではオランダ人が製作した最古の台湾全島図となっている。

▽ 「康熙台湾輿図」 山水画の中の台湾

中国では、清の時代から台湾の局所地図や全島地図が大量に出回り始めていた。それは鄭成功が当時台湾を統治していたオランダ人を破って台湾を制圧し、清朝の注意を引き付けたからだった。

清朝は鄭成功の台湾での形勢を把握しようと、各種の軍備図や海図を製作させて敵の動向を探り、いかにして鄭氏政権の勢力を徹底的に排除するか企てていたのだと呉さんは説明する。

故宮が所蔵する「台湾略図」。1666年ごろに製作されたとされる(国立故宮博物院提供)
故宮が所蔵する「台湾略図」。1666年ごろに製作されたとされる(国立故宮博物院提供)

鄭氏政権が清に降伏すると、台湾は正式に清の版図に加えられ、地図の製作がますます重要になった。

台湾は当時は辺境の地だったため、実はみんなが台湾について理解したかったわけではないと呉さんは言う。「ですが、中国の統治の空気において、辺境の社会を理解するにはまず地図や人々から着手する必要があったのです」

台湾博物館が所蔵する「康熙台湾輿図」は17世紀末、18世紀初頭に描かれ、まさに清による統治の初期に康熙帝に呈された地図だ。国土の版図の端に位置する台湾がいったいどんな土地なのかを康熙帝に理解させ、行政や軍事などの統治方針を策定する狙いがあった。「康熙台湾輿図」は現在知る限り、現存する中国最古の単幅の彩色台湾全図で、国宝とされている。

「康熙台湾輿図」は中国の伝統的な山水画の技法で描かれ、中国独特の手描き地図の特色が十分に表されている。「康熙台湾輿図」には少なくとも4つのバージョンがあるとされ、台湾博物館は3種類を収蔵している。いずれも日本統治時代の台湾総督府博物館から接収したものだ。このうち1点は原作と推定され、残る2点は日本統治時代に描かれた模本だとみられている。

「康熙台湾輿図」は横が523センチに上るだけでなく、縦幅も64センチあり、どのようにして見ていくかというもの面白さの一つだ(王騰毅撮影)
「康熙台湾輿図」は横が523センチに上るだけでなく、縦幅も64センチあり、どのようにして見ていくかというもの面白さの一つだ(王騰毅撮影)

清朝統治下の初期に政府がまず最初に接触したのは台湾島の北から南までどの土地にもいる平埔族だった。そのため、平埔族の生活様式を理解するのが最重要な仕事だったと呉さん。「康熙台湾輿図」に特徴的なのは、地理や行政の概況だけでなく、文化面が垣間見られる風俗図の要素が含まれる点だ。

「地図上では実は多くの平埔族の住居が見られます。平埔族の村落のそばには竹林が非常に多く描かれており、海岸エリアの比較的近くに位置していました。また、平埔族の人々の装いなども見ることができます」(呉さん)。地図に描かれる山や河川、人が集まる場所などによって、皇帝は全ての土地や行政の概況、特殊な民情を一目で理解し、辺境について把握することができたのだった。

デジタルデータで復元された「康熙台湾輿図」の台南地区の部分。作者が住宅によって集落を描き、把握しているエリアを山脈で区切っていたことが分かる。山脈の向こう側が台湾東部。(国立台湾博物館提供)
デジタルデータで復元された「康熙台湾輿図」の台南地区の部分。作者が住宅によって集落を描き、把握しているエリアを山脈で区切っていたことが分かる。山脈の向こう側が台湾東部。(国立台湾博物館提供)

▽ 乾隆台湾地図 東側の情報を把握

だが、「康熙台湾輿図」を含め、現存する中国の古地図では台湾東側の描写はあまり見られない。故宮博物院が収蔵する「乾隆台湾地図」は東側の状況を説明している貴重な地図だ。清の時代の地図の中で図面上の情報量が最も多い長卷台湾全島地図でもある。

横長のこの地図は中国から台湾を見た形になっており、左手が台湾北部、右端が南部、上側に東部が描かれている。「この地図の特徴は、東部に他にも集落があるという情報が空白部分に非常に多く書き込まれている点です。これらの集落がどこにあるかは示されてはいませんが、文字での説明が多くあります。これは地図の製作者が島について豊富な情報を得ていたことを示しています」と盧さんは説明する。

「乾隆台湾地図」(国立故宮博物院提供)
「乾隆台湾地図」(国立故宮博物院提供)

▽ 謎に包まれた作者

「康熙台湾輿図」や「乾隆台湾地図」、あるいは台湾が描かれているその他の中国の古地図でも、作者が誰なのかは謎に包まれている。誰が描いたのか、何人で仕上げたのか、情報はどこから得たのか。背後には多くの未知がある。

製作された年代さえも分からず、長い研究の末にやっとどんな時代背景で描かれたのかを推測できるのだと盧さんは明かす。山水画の知識がある人であれば似たものを作れる可能性があるため、「地図絵師」の概念の有無も判断するのは難しい。

そのため、台湾の古地図を描いた人が実際に台湾に来たことがあるのかという点にも多くの可能性が存在する。

製作者が台湾に到着したことのある航海士であれば、自身が実際に見聞きしたものを基に描くことができたであろうし、台湾地図製作の任務を受けた人が書籍の中から資料を探して絵にしたケースもあったかもしれないと盧さんは語る。例えば、清朝の康煕年間に書かれた紀行文「裨海記遊」には台湾の風土や民情がテキストで描写されているが、地図を製作する際にこれらの紀行文が素材として使われた可能性もある。

中国古代の宮廷には専門的に地図について担当する職方(しょくほう)司があり、統治下の全ての地図の管理を担っていたと呉さんは説明する。地図の管理のほか、地図でよく用いられる記号を熟知する絵師もいた。呉さんは、台湾に関する古地図はもしかすると各方面の情報源を集めた後で一括して職方司に送られ、専門の絵師によってまとめられたものかもしれないと指摘する。

これらの地図の作者が誰なのか、現代人がその本当の姿を知ることは難しいが、描かれた一筆一筆は確かに激動の時代の貴重な歴史的記録を残している。

▽ 誰もがグーグルマップにアクセスできる時代 古地図はタイムカプセルに

かつては国家の重要な機密情報とされた地図は、現代人の生活においては当たり前過ぎてあまり関心を向けられない存在になっている。メトロの駅にはエリア地図があり、ツーリストセンターでは現地の観光地図が無料で配布される。さらには、スマートフォンを開けば誰もが無限に広がるグーグル地図をいつでもどこでも利用することができ、どこに行くのも難しいことではない。

地図が重要な機密情報から庶民も使えるものに徐々に移行していく時期は各国の歴史的発展によって異なると呉さんは言う。台湾の場合は、1910年代以降に変化が訪れ始めた。

日本統治時代の1920年代初期に描かれた台湾の石器時代の遺物分布地図。鳥居龍蔵、森丑之助の2人が台湾で考古調査を行った成果が記されている(国立台湾博物館提供)
日本統治時代の1920年代初期に描かれた台湾の石器時代の遺物分布地図。鳥居龍蔵、森丑之助の2人が台湾で考古調査を行った成果が記されている(国立台湾博物館提供)

「もっと昔は字を読める人が少なく、市中に地図がある状態は一般的ではありませんでした。地図の庶民化において重要なのは大量生産されることで、それはおそらく機械による印刷に頼る必要がありました」(呉さん)。当時の日本政府は台湾の都市計画を推し進めるに当たり、地図を教育の手段と見なし、小中学生も地図の読み方を学び始めるようになった。それによって地図の庶民化が進んでいった。

地図教材や市街図、地域の郷土地図は1910年代に相次いで登場し、1930年代になると情報が豊富できれいに印刷された観光地図や俯瞰図が大きなビジネス市場を形成し、台湾人が楽しめるだけでなく、日本人観光客をも呼び込んだ。

GPS(全地球測位システム)の応用が発達した今日、古地図は距離や地理を示すといった地図が持つ最も重要な機能は失ったが、そこに描かれた記号は現代人が過去をうかがい知ることができるタイムカプセルのようなものになった。私たちは昔の人々が自分たちのいる世界をどのように理解していたかを見て取ることができ、自分たちがいる土地の歴史的立ち位置をも探ることができる。

「なぜみんなが地図を『文化の目』と見なすのでしょうか。それは地図そのものが非常にさまざまな性質を併せ持っているからです。単なる地図というだけでなく、さまざまな生活情報、風土、生活資源も含み、異なる風俗、民情を見ることができます。描かれるテーマは非常に多様なのです」(呉さん)。古地図はさまざまな角度から世界、あるいは世界の変化を知ることができる素材であるだけでなく、多くの手掛かりを記録した時代の縮図でもあり、後世の人々によって詳細に掘り起こされるのを待っているのだと呉さんは話した。

(王宝児/編集:名切千絵)

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