11月に開催された野球の国際大会・プレミア12で初優勝を果たした台湾。12月に入った今でも、喜びの余韻が漂っています。11月21~24日に東京ドームで行われた2次リーグと決勝戦を訪日取材した中央社写真記者(報道カメラマン)鄭清元の、喜びや文化の違いへの戸惑い、“記者魂”がつまった取材記を、編集・翻訳してお届けします。
台湾や日本が参戦した1次リーグA組の試合は、開幕戦を除く全試合が台北市で行われた。
11月17日、日本・キューバ戦で日本が、台湾・オーストラリア戦で台湾がそれぞれ勝利すれば、台湾の2次リーグ進出が確定することとなっていたこの日、休暇だった私は自宅で2試合の中継を行ったり来たりしながら見ていた。台湾がオーストラリアに点差をつけ、2次リーグ進出が濃厚となったその時、すぐに飛び上がってパソコンを開き、飛行機やホテルの争奪戦に加わった。
東京観光のベストシーズンに当たっていたこともあり、飛行機やホテルは1分ごとにどんどんと値段が上がり、空きも少なくなっていた。同業者たちと「東京ドームの隣の公園で寝泊まりするか?」と冗談を言い合うほどだった。
台北ドームでまさに試合を取材中だったスポーツ担当記者も、試合を追いつつ争奪戦を手伝ってくれた。おかげで無事、台湾代表の公式練習に間に合う行程で予約できた。
2次リーグ開幕前日の20日、成田空港に到着した私は写真を撮る間もなく京成スカイライナーに乗り込み、東京ドームへと向かった。到着後、関係者証を受け取り、セキュリティーを通ってついに日本の「野球の聖地」に足を踏み入れた。
早速壁が立ちはだかった。関係者用のエレベーターが1台しかなく、相当待たされることが分かったのだ。急いでいたため撮影機材一式を背負って階段を2階分下り、さらに長い通路を突っ切るしかなかった。だが、真の「戦い」は始まったばかりだった。
日本人はとても几帳面で、細かなルールを重視するのは世界的に有名だ。今回もさすが大きな大会なだけあって、ある場所は“写真はOKだが、ビデオはNG”。また他のある場所は撮影どころか“立つのもNG”、バックネット裏の観客席から投手を撮るのも禁止だった。さらには球場内でファンを取材するにも申請書を書かなければならず、許可もすぐには下りなかった。動線管理も厳格で、決められた場所から1メートル移動して撮影しただけでも、その写真の商用利用は許されなかった。
今回は浅草橋駅から徒歩15分ほどのホテルに宿泊した。ラッシュアワーのJRに撮影機材を抱えて乗らなくてはならず、呼吸が難しいほどだった。
23日の2次リーグ・台日戦前にはこんな出来事があった。日本側の記者が一塁側の撮影席を、私たちの三塁側の撮影席と交換してくれないかと提案されたのだ。(台湾代表は三塁側のベンチにいるのに…)英語、日本語、中国語の3言語を駆使して1時間程かけて交渉が成立した時には、思わずため息が出てしまった。
24日の決勝戦の頃には、記者たちの緊張感も少しずつほぐれてきた。試合前には、アフロヘアーの台湾人記者の元に似たような髪型の日本人記者が駆け寄ってきて握手をし、一緒に写真に写るという「台日友好」の場面もあった。日本人記者は「もふもふ」という日本語を教えてくれた。
前評判は良くなかった今回の台湾代表。トップチームとしては32年ぶりに、世界大会の決勝戦に進んだ。0-0で迎えた四回表、林家正がソロ本塁打を放った後にキャプテンの陳傑憲が3ラン本塁打を決めた時、会場の台湾のファンが大声で叫んでいるのが聞こえていた。
しかし私の心の中にはずっと「すぐに追い付かれて逆転してしまうのでは?」と不安が漂っていた。九回裏、朱育賢がファーストライナーを捕って一塁ベースを踏み、ダブルプレーが成立した瞬間でさえも、私の身体は「決勝戦撮影モード」に切り替わりシャッターを切り続けたが、頭の中では「本当に勝ったの?もう残念がらずに済むの?本当に世界一になったの?」という疑問が浮かび続けていた。
閉会式が終わり、パソコンの原稿発信記録を見ても、まだ夢のようだった。台湾にいる野球ファンも同じような思いを抱いていたと思う。
以前、先輩に野球の国際大会の記事の書き方について、勝者と敗者に焦点を当てて、両方をミックスさせて…と教わった。「台湾の写真記者が一番得意なのは、負けたけど勝ったように見える場面に処理することだ」と話していたが、あの先輩に言いたい。今回は違った。ついに勝者にフォーカスすることができたのだ。
この特別な瞬間に、最前線で、自分の技術を使って目の前の出来事を納め、さらに台湾の勇士たちのために歴史の新たな1ページを記録できたことを光栄に思う。