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49年の「長江突囲」に参加 退役軍人男性「誰も怖がっていなかった」/台湾

2025/12/13 19:07
11月末に100歳を迎えた楊芝生さん
11月末に100歳を迎えた楊芝生さん

(台北中央社)国共内戦中の1949年4月、中国・長江に展開されていた国軍の艦艇が共産党軍の河川封鎖をくぐり抜けて南京から上海に移動し、50年の朝鮮戦争勃発前後まで台湾海峡での戦力維持に寄与した「長江突囲」に参加した男性が先月下旬、中央社のインタビューに応じ、当時について「誰も怖がっていなかった」と振り返った。

長江突囲は、4月22日までに共産党軍が上海と南京の中間地点にある江陰の要塞を占拠したため、その上流にいた国軍の艦艇が共産党軍と交戦をしながら下流に移動した一連の戦い。南京からは掃海艇「永嘉」の陳慶堃艦長を中心に9隻が出港し、永嘉を含む7隻が上海に到着した。

永嘉の乗組員だった楊芝生さんは25年、江蘇省宜興生まれ。42年に汪兆銘政権が上海に設立した中央海軍学校に入学。第2次世界大戦後の45年に海軍に入隊した。「永嘉」はもともと米国海軍の掃海艇で、48年に米国による支援の一環として国軍に引き渡された。

楊さんは同年、南部・高雄でフィリピンから回航されてきた永嘉を迎えるよう命じられ、その際に陳艦長から乗組員に任命された。この時点では人生の半分以上を台湾で過ごすことになるとは思っていなかったと話す。当時の階級は少尉だった。

長江突囲では23日午後5時に南京を出港。楊さんは出港前の時点で共産党軍の包囲を突破することに気付いていたと語る。長江の北側はすでに共産党軍が占領していたことから、陳艦長は北岸の共産党軍陣地に対して砲撃命令を下したという。上海に到着した永嘉の船体には、砲撃を受け、大きな穴が複数開いていた。

陳艦長は「良い上官だった」と楊さん。「勇敢で戦略的で、やると決めたらやり切る人だった」。上海到着時には防弾用として搭載していた米が入った袋を母親に渡すことを許可した他、上海撤退の際には母親を永嘉に同乗させることに同意してくれたという。当時、乗組員の妻子や婚約者などが乗船することは半ば常態化していた。

だが、楊さんは最終的に母親を乗船させることはなかった。母親は台湾と中国の往来が断絶した後、上海で餓死したとされ、人生最大の心残りになっている。「間違ったことをした。迷いがあった」。

楊さんはその後、中校(中佐)まで昇進し、65年に退役。以後、約20年間にわたり商業船の運航に携わり、2017年からは退役軍人施設で暮らしている。先月29日には100歳を迎えた。

(呉書緯、林克倫/編集:齊藤啓介)

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