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台湾の清明節 墓参りで先祖に思い馳せる

2019/04/03 06:10
墓参りをする人々。中央社資料写真
墓参りをする人々。中央社資料写真

台湾では清明節に墓参りをする習慣がある。記者の父方の先祖はもう何代も前に台湾に移住してきた漢民族。家族は毎年、この季節になると親戚と連れ立って、北東部・貢寮(新北市)の山中にある先祖の墓へ出向く。墓参りでは各地に散らばる親戚が一堂に会し、台湾語であいさつを交わす。記事ではわが家の墓参りを例に、台湾の清明節の由来や習慣について紹介する。(楊千慧)

▽清明節とは

二十四節気の1つで、春分の次に当たる「清明」。旧正月(春節)、端午節、中秋節と並んで重要な伝統行事とされ、家族と共に過ごす。毎年4月の4日か5日に迎え、「清明」という名の通り清らかで明るく、草木が生き生きとする季節だ。

天気がすがすがしい清明節に墓参りを行うのは宋の時代の中国で広まった習慣で、台湾に移り住んだビン南人たちにも受け継がれている。昨年還暦を迎えた父は、物心がついたときから清明節の墓参りを毎年行っていたと振り返る。(ビン=門がまえに虫)

▽曽祖父母の墓と、それより上の世代の高祖父母の墓

在来線、台湾鉄道の貢寮駅から車をさらに20分ほど走らせ、車一台がやっと通れるほど細くて急な坂道を登っていくとわが先祖の墓にたどり着く。墓は2つあり、親戚たちによるとそれぞれ記者の曽祖父母とそのまた1つ上の世代の高祖父母に当たる人たちの墓だという。

山の斜面を利用して作られている曽祖父母の墓は台湾では比較的よく見られるスタイルの墓だ。手前には石でできた簡単な仕切りがあり、中央にある墓石を半円形の溝がぐるっと囲んでいる。墓石には「民国乙巳」の文字が彫られていることから、1965年に建てられたと考えられる。

曽祖父母の墓
曽祖父母の墓

一方、曽祖父母の墓より奥まったところにある高祖父母の墓は小さな家のような造りになっている。屋根や壁、仕切りには色とりどりのタイルが貼られており、曽祖父母のものよりだいぶ大きい。元来は曽祖父母の墓より古かったが、家業の農家を継いだ祖父の2番目の兄が祖先の墓をより立派なものにしようと改築し、現在の外観となったのだという。正面にはガラスの引き戸が設置され、中にはお供え物をまつるための台が置かれており、奥には一族の遺骨を納めるスペースにつながる鉄の扉がある。

高祖父母の墓
高祖父母の墓

▽祖父は8人きょうだい 子孫が持ち回りで墓参りを主催

祖父は日本統治時代初期の1919年に貢寮で生まれた。兄6人と姉1人を持つ末っ子で、墓参りは毎年、祖父を含めた7人の男兄弟の子孫が持ち回りで主催する。今年はわが家の番で、日取りの決定や親戚への連絡、お供え物の準備などを受け持った。

▽カラフルな紙を墓の随所に置く「掛紙」 卵の殻を墓にまき子孫繁栄を願う

この日は朝6時前に台北を出発し、7時半過ぎに墓に到着。着いたら、まずはお供え物を並べる。果物やお菓子などを先祖の墓石の前と、墓の両脇で先祖を守っている土地の神様に供える。

墓の周りに生えている草をむしったら、「掛紙」と呼ばれる儀式を行う。赤、白、黄など色とりどりの紙を束ねて墓の上に何カ所か置くことで、この墓に子孫がいることを周囲に知らせるのだという。

「掛紙」には小さい石を重しとして載せる。
「掛紙」には小さい石を重しとして載せる。

親戚が徐々に集まってきた午前9時過ぎ、お参りを開始。線香に火を付け、高祖父母の墓からお参りをする。両脇の神様、先祖の順に線香を上げる。

お参り後の土地の神様。この日は雨が降っていたが、50~60人の親戚が集まった。
お参り後の土地の神様。この日は雨が降っていたが、50~60人の親戚が集まった。

お参りが一通り済んだら、準備しておいたゆで卵の殻をむき、墓の周りに卵の殻をまく。「殻を脱ぎ捨てる」ということから世代交代や新陳代謝の象徴だと考えられているほか、子孫の繁栄を願って行う儀式でもあるという。

墓を囲む溝にまかれた卵の殻
墓を囲む溝にまかれた卵の殻

この後には冥銭(紙銭)を燃やす。三日月型の占い道具「ポエ」を投げ落として先祖たちに満腹になったかを問う儀式も行う。2つで一組になっているポエがそれぞれ表と裏になったら、先祖たちが満足したという合図だ。最後には爆竹を鳴らす。

三日月型の占い道具「ポエ」
三日月型の占い道具「ポエ」
大きな音を立てて鳴り響く爆竹
大きな音を立てて鳴り響く爆竹

▽儀式は簡略化の傾向に 「今年で最後」と毎回言いつつも…

昼ごろには儀式が一段落し、家族と手分けしてお供え物を片付け、墓や周辺を掃除した。昔に比べると、儀式はだいぶ簡略化されたと親戚たちは声をそろえる。墓参りに顔を出す親戚も少しずつ減ってきているという。墓参りの後は毎回、食事会を行っていたが、今年はなかった。

父が子供の頃、道路はまだ舗装されておらず、辺りは草木が生い茂っていたため、家の年長者が鎌を手に道を切り開かなければ墓にたどり着くことはできなかった。お供え物は今とは比べものにならないほど多く、豪華だったという。昔は大所帯が当たり前で集まる親戚も何百人といたため、墓参りの後の食事会は近くの小学校を会場にして行われた。

祖父とその7人の兄姉たちは貢寮で生まれたが、地元に残ったのは2番目の兄だけで、それ以外はより良い生活を求めて、港町としてすでに発展していた近隣の基隆に出て行った。貢寮に残っている親戚はほとんどおらず、すでに亡くなっている祖父母の墓も別の場所にある。墓参りのたびに「みんなで集まってやるのは今年で最後にしようか」という声がちらほら上がるものの、なかなか踏ん切りがつかないようだ。

とは言いつつ、久々に集まって昔話に花を咲かせる親戚たち。ああでもない、こうでもないと言いながら遠い過去に思いを巡らす。子供たちを目にしては「大きくなったね」と頭をなでる。その様子を見守るように静かにたたずむ祖先の墓。カラフルな紙と卵の殻が散らされ、線香の煙を天に伸ばすその姿は喜んでいるようにも見えた。

一通りお参りを終えた後の曽祖父母の墓
一通りお参りを終えた後の曽祖父母の墓
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