台湾本島から約270キロ、中国大陸・アモイ市から約10キロにある金門島。その特殊な地理的位置から、金門は明の時代から防衛の要所としての役割を担い、鄭成功の「反清復明」から蒋介石の「反共復国」まで、度重なる戦火の洗礼を受けてきた。金門を旅すると、戦地としての歴史を色濃く感じさせる場所や施設が否応なしに目につく。本編では金門の歴史を垣間見られるいくつかの戦争遺跡、関連施設を紹介したい。
国民党政権が台湾に撤退した1949年以降、中国共産党に対抗する「反共」の最前線となった金門。金門諸島は、同地を占領しようとたくらむ人民解放軍によって激しい攻撃にさらされた。特に多くの死傷者や建物損壊などの被害が出たのは1958年8月23日に始まった「金門砲戦」。1カ月半におよぶ猛烈な砲撃を受け、その後も中国大陸による定期的な砲撃は1979年1月までの約21年間にわたり続いた。軍が戦地の政務を一元化する戦地政務が解除されたのは1992年。現在では、戦争文化遺跡を世界で他に例を見ない文化資産として保護する取り組みを県政府が推進し、観光資源としての活用が図られている。
金門砲戦は開始日の8月23日に由来し、中国語で「八二三砲戦」と呼ばれている。「八二三戦史館」では開戦前の世界情勢から開戦後の戦況までが、写真や模型、映像などを使って紹介されており、金門砲戦の全体像について把握することができる。館内は広くはないため、30分~1時間ほどで巡ることが可能。屋外には当時使用されていたF-86 戦闘機やLVT(水陸両用トラクター)などが展示されている。
金門島の最北端に設置されている「馬山観測所」は戦時中、中国大陸の動静を監視する役割を担ってきた。観測用の穴は地面と同じ高さに作られており、身を潜めながら対岸を見つめていたことがひしひしと伝わってくる。
戦時中に掘られた坑道として特に有名なのは、1963年に建設された「テキ山坑道」。水路も作られており、小型船舶の補給拠点として使用されていた。水路の入り口からわずかに光が差し込み、壁面が水面に反射された光景は神秘的。以前は軍事施設であったことを忘れさせてしまうような美しさだった。(テキ=羽の下に隹)
全坑道式榴弾砲の基地とされた「獅山砲陣地」では、各種の榴弾砲を展示。この施設では定時に榴弾砲の実演訓練を実施しており、観光の目玉となっている。記者は見逃してしまったが、その迫力は旅行者にとって忘れられない経験になるという。
金門のシンボルとされる「毋忘在キョ」の石碑。当時の総統、蒋介石の指示を受けて建設され、1952年に完成した。「毋忘在キョ」とは「『キョ』にあることを忘れるな」という意味の故事成語で、中国大陸の奪還を目指すスローガンとされた。石碑は大武山の頂上付近に設置されているが、そこにつながる歩道には車やバイクは入れないため、山道を1.5キロほど歩く必要がある。傾斜がきつい部分もあり、道のりは楽ではない。歩道入り口からの所要時間は30分ほど。金門で最も高い位置にあることから、蒋介石の統治者としての意図を感じさせた。(キョ=くさかんむりに呂)
金門にはビン南式建築が立ち並ぶ伝統的集落が点在する。これらの集落も金門砲戦によって被害を受けた。650年余りの歴史を有する珠山集落の廟や民家も砲撃により損壊。一部は修復されたが、戦争や風化によって廃墟となり、現在でもそのままになっている場所も見受けられた。(ビン=門構えに虫)
記者が金門を訪れたのは2月末。交通手段としてスクーターをレンタルしたのだが、かなりの強風に襲われ、凍えるほどの寒さを感じた。さらに目は充血し、唇も痛いほどに乾燥してしまった(滞在中の平均気温は11~14度、最大風速は9.4~14.4メートル)。金門には毎年10月から翌年2月にかけて北東の季節風が吹き付けるため、この期間は強風に見舞われやすい。秋から冬に金門を旅する場合は、風を通しにくいダウンジャケットを着用し、スクーターに乗る際はマスクやメガネを装着するといいだろう。
(名切千絵)