1945年以前、日本映画の多くが国策遂行のための製作される「国民映画」だったが、脚本家の張我軍、プロデューサーの劉吶鴎、作曲家の江文也といった台湾出身の才能あふれる人材が活躍した。「江文也伝」の著者、劉美蓮さんが台湾の歴史文学雑誌「伝記文学」に寄稿した。その中の一部を抜粋の上、編集翻訳して紹介する。
脚本家・張我軍
日中合作による初の大陸映画として1938年に公開された「東洋平和の道」。張我軍は「張迷生」のペンネームで、監督の鈴木重吉と共同で脚本を手掛けた。
プロデューサー・劉吶鴎
劉吶鴎は日本占領下の上海で1939年に立ち上げられた国策映画会社「中華電影」で製作部次長を務めた。同社副董事長(副会長)の川喜多長政から重用され、製作部長の松崎啓次の下で手腕を発揮した。だが1940年9月、蒋介石政権から差し向けられた殺し屋によって「皇民化した売国奴」として暗殺された。同社董事長の褚民誼は南京に置かれた日本の傀儡政権、汪兆銘政権の腹心であったため、劉の死後には汪から香典と花が届けられた。これは劉の生前の活躍を物語っているが、戦後の台湾の蒋家時代にはその名は全く表に出てこなかった。
作曲家・江文也
「東洋平和の道」では江文也が主題歌の作曲を手掛け、歌唱指導も担当した。江が音楽を担当した映画の中で最もよく知られるのは、藤田進や原節子らが出演した国策映画「熱風」(1943年)だろう。戦記映画「南京」や「北京」などの音楽も作曲した。1938年6月には李香蘭(山口淑子)とのデュエット曲「五色旗之下」を満州国のコロナレコードから発表している。