文化+/100年早かった彫刻家、黄土水 「台湾初の裸婦像」日本統治時代に

2022/07/20 19:08
中央社記者張新偉撮影、2022年2月4日
中央社記者張新偉撮影、2022年2月4日

20歳のとき、海を越え日本へ渡った。台湾からの学生は1人だけ。この土地では優秀でなければならない。100点満点で99点でもまだ足りない。そう思っていた。木工を生業とする家に生まれた彼は日々、大理石と向き合った。休んだり人と話したりするのはまれで、他の学生からは変わり者扱いされ、嫌う者さえいた。

黄土水。台湾初の彫刻による裸婦像「甘露水」はこの青年の手から生まれた。1919(大正8)年に完成し、21(大正10)年には帝展(現・日展)で入選を果たした。

貝殻を背に天を仰ぐように立つ女性。人々が憧れるような9頭身やすらっとした脚は持ち合わせていないものの、その堂々とした姿からは強さや自信を感じさせ、神々しいオーラさえ放っている。

台湾美術史学者の蕭瓊瑞さんは、甘露水の歴史的意義は台湾初の女性の裸体彫像にとどまらないと話す。「より大胆に言えば、この作品から当時の台湾人は、文明の発展の度合いにおいて日本を大きく上回っていたと言える」と断言する蕭さん。黄は日本の教員から天才と称されていたという。

1921(大正10)年に帝展(現・日展)で入選した甘露水(北師美術館提供)
1921(大正10)年に帝展(現・日展)で入選した甘露水(北師美術館提供)

▽99点でも満足しない 黄土水の手から甘露水が生まれるまで

甘露水が帝展に入選したのは、今から100年以上前のこと。当時、日本や台湾で裸婦像はどのように考えられていたのだろうか。

蕭氏によれば、日本では西洋の美術が受け入れられており、裸像の作品を手掛ける芸術家はすでに複数誕生していた。これらの作品は西洋の人体比率から脱却し、東洋の美学をもって制作されており、黄土水が師事した教員はいずれも彫刻で人体の美学を表現するのに秀でた芸術家たちだった。

黄土水は台湾で最初に日本に渡って美術を学んだ者であり、台湾初の近代彫刻家とされる。「それまで台湾の彫刻は、伝統的な木工職人たちによるものだった。彫るものは竜や鳳凰、仏像などで、裸婦像などあり得なかった」(蕭氏)。現存する資料から、甘露水は「台湾人の手から生まれた初の女性の裸体彫像」と言えるのだという。

黄土水は台湾総督府民政長官だった内田嘉吉の推薦で東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学し、3年間の奨学金が支給された。だが生活は苦しく、甘露水に使用された大理石は彫刻用のものではなく、比較的安価なものだった。

日本に留学した台湾人が暮らした「高砂寮」に黄土水と同時期に入居していた哲学家・張深切は回顧録で、黄土水は毎日、寮の空き地で大理石を削っていたとつづっている。食事以外に休むことはほとんどなかったという。

さらに、声を掛けられても返事をしないことから、あまり好かれていなかったとも記されていた。留学生たちは芸術や彫刻に明るくなく、「土水という名前やその風貌から『泥職人』とばかにされていた」と張は振り返った。

だが、黄土水は高い志を持っていた。卒業証書を受け取った後「私に99点しか与えないなんて、こんな証書必要ない」と高砂寮で不満を爆発させ、張を驚かせた。他の留学生にとっては学位の取得こそが全てだったからだ。黄の成績は東京美術学校で過去最高得点だったという。

日本に留学した黄土水(「黄土水百年誕辰紀念特刊」より)
日本に留学した黄土水(「黄土水百年誕辰紀念特刊」より)

▽甘露水は「ビーナス」か「はまぐり女房」か

甘露水にはいくつかの別名がある。「台湾のビーナス」もその一つだ。貝殻の上に立つその姿は、ボッティチェリの名画「ビーナスの誕生」をほうふつとさせる。だが、ボッティチェリが描いたビーナスが手で胸を、髪で下腹部を覆っているのに対し、甘露水は胸を開き、自身の体をあらわにしている。

蕭さんは、女性の体をこれほどまでに露出させた裸婦像は他にないと指摘する。これについて「黄土水には強い思いがあった」と推測する蕭さん。禁断の果実を食べてしまう前のイブのような、別格の純潔さ。それこそが黄土水にとっての「台湾の女神」だったと蕭さんは考える。

甘露水は「はまぐり女房」の異名をも取る。漁師に逃がしてもらった大きなはまぐりが美しい娘となって恩返しをするという昔話で、日本や中国、台湾でも似たような話が語り継がれてきた。

黄土水は台北市の万華に古くからある寺廟「艋舺清水巌」の近辺で育った。民間信仰には幼い頃からよく触れていたはずだ。甘露水の貝は台湾に伝わるはまぐり女房の伝説を昇華させたものと捉えることもできると蕭さんは話す。

また、作品名の甘露水は、観音菩薩(ぼさつ)が持つ水がめの中の聖水と同じ名称でもある。黄土水は日本統治時代に生きる中で、自身の故郷の文化を題材に「台湾の女神」を作り上げようという志を持っていたと想像できる。

作品のモデルとなったのは誰か、については分からないままだ。学生だった黄土水にとってモデルを雇うのは困難だったと考えられ、共に日本に渡った妻の廖秋桂がモデルとなった可能性もあるが、確かめることはもうできない。

中央社記者張新偉撮影
中央社記者張新偉撮影

▽裸婦像は罪なのか 恥部に残るインクの跡

甘露水を台湾で見られるのは、廖秋桂の功労と言える。黄土水は1930(昭和5)年、腹膜炎のため、日本で死去。35歳でこの世を去った。その後、廖秋桂が亡き夫の作品の数々を台湾に持ち帰り、遺作展を開いたのだ。

甘露水は台北にある台湾教育会館(現・二二八国家紀念館)に所蔵されたが、戦後に同館を使用した台湾省臨時省議会が58年に台中に移転。それに伴い甘露水も台中に移されたが、なぜか一時、台中駅に放置された。その後、台中の医師が引き取り、子孫が保管していた。

昨年、所在が判明し、文化部(文化省)に引き渡された同作。修復には半年を要した。チームを率いたのは、森純一氏。過去に黄土水の「南国」(水牛群像)や「ひさ子さん」(少女胸像)などを修復した。

近くで見るとインクの跡が残っているのが分かる。右は国立台北教育大(台北市)の林曼麗名誉教授。中央社記者鄭傑文撮影
近くで見るとインクの跡が残っているのが分かる。右は国立台北教育大(台北市)の林曼麗名誉教授。中央社記者鄭傑文撮影

修復において最も困難を極めたのは、恥部にかけられたインクの汚れだった。完全に消し去ることはできず、近くで見ると跡が残っているのが分かる。

インクは戦後にかけられたものと考えられている。国立台北教育大(台北市)の林曼麗名誉教授は、日本統治を終えたばかりだった当時、黄土水や台湾文化に対する理解が人々にはまだなかったと分析。裸婦像に嫌悪感を抱いた人もいたのだろうと話す。

▽裸体像巡る論争 展示がかなわなかった芸術家も

黄土水の甘露水は公開にこぎ着けることができたが、裸体像は過去にさまざまな議論を巻き起こしてきた。彫刻家の楊英風が日月潭教育会館のために男女の裸体の彫刻作品を制作しようとしたが、「景観が損なわれる」と指摘されたため服を着せられることになった。

また、国父紀念館では複数の裸体像の展示が拒否されたことがある。黄土水に続いて日本に留学した彫刻家蒲添生の作品も展示が認められなかった。

裸婦像「陽光」の制作に取り組む蒲添生(浩志さん提供)
裸婦像「陽光」の制作に取り組む蒲添生(浩志さん提供)

蒲添生の息子の浩志さんは「父は非常にがっかりしていた」と振り返る。浩志さんによれば、蒲添生は創作を通じ人体の美を追求しており、裸体像は美と健康の表現と考えていたという。

当時、裸体の絵画なども展示が許されなかった。浩志さんはその理由について「国父に失礼だ」とされたと話す。1982年のことだった。

今から考えると少し信じ難いことのように思えるが、立法院(国会)でも議論になり、文化部(文化省)の前身である文化建設委員會の主任委員(閣僚)が説明を求められる事態にまで発展した。「ヌード作品は、芸術かわいせつか」。市民の間でも熱く議論が交わされた。

日の目を浴びることがかなった裸婦像「陽光」(浩志さん提供)
日の目を浴びることがかなった裸婦像「陽光」(浩志さん提供)

▽紆余曲折経て日の目浴びる

蒲添生が制作した裸婦像「陽光」の国父紀念館での展示がかなったのはそれから何年も経ってからのことだった。2016年、国父紀念館で蒲添生の生誕105周年を祝う特別展が実現した。浩志さんは「父のことが認められたという気持ちだった」と話す。

蒲添生が制作した「陽光」を含めた裸婦像3作品は「三美神」とされる。14年、浩志さんはこれらを台北市に寄贈し、華山公園に設置された。かつて「わいせつ」のレッテルを貼られたが、時代の変化とともに、芸術作品として受け入れられ、市民の憩いの場に存在することが認められるようになった。

そして、「甘露水」の出現もまた新たな始まりと言える。蕭さんによれば、甘露水に関する過去の資料は少なく、甘露水が与えた影響を知ることは難しいという。「甘露水が今、この時に現れたことには意義がある。それは、未来に影響を与えることだ」と蕭さん。これから美の新たな探求が始まるに違いない。

(王宝児/編集:楊千慧)

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※本記事は中央社の隔週連載「文化+」の「観念及行動領先100年 黄土水的温柔用心與堅定意志」を翻訳編集したものです。

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