(台北中央社)日本統治下で志願兵として日本軍に加わった台湾人元日本兵の周良仁さん。すでに90歳を超えているが、80年前の出来事は今でも鮮明に覚えている。軍隊での過酷な日々や戦争の残酷な一面を語り、「戦争はひどく恐ろしい。二度と繰り返してはならない」と沈痛な面持ちで何度も訴えた。
第2次世界大戦末期、台湾からは約20万人が日本兵として動員され、中国や南洋などの戦場に送られたとされる。
周さんは1930年、中部・台中生まれ。日本海軍の宣伝や「志願兵に選ばれるのは最高栄誉」とした当時の社会的空気に影響され、家族に内緒で日本兵に志願した。入隊時はわずか14、15歳。南部・高雄での訓練を経て舞鶴に送られ、「海軍特別年少兵」となった。14歳以上16歳未満の少年を将来の中堅幹部要員として育成する制度で、平和祈念展示資料館の資料によれば、4期で1万8160人が採用され、2期までの約7400人の修了者のうち約3200人が戦死したとされている。周さんが提供した資料では、4期全体での戦死者は5020人に上るという。
周さんは軍隊での日々を振り返ると「とてもつらかった」と眉間にしわを寄せた。常に寒さに震え、罰を受けることも多かった。周さんの部隊でも多くの人が戦死した。
台湾歴史博物館の資料によれば、「海軍特別志願兵」の申請者は身体検査や学力試験、面接に合格すると6カ月の基礎訓練を受け、その後3カ月の海軍の専門的な訓練を経て、能力に応じて海軍の各兵種に配属される。
周さんの訓練の終盤、広島と長崎に原発が投下された。そして、横浜港からの出港直前に昭和天皇の玉音放送を仲間と共に聞いた。戦争終結、日本の無条件降伏の知らせに「心境はとてもつらかった」と周さんは語る。当時、まだ16歳だった。
周さんは実際の戦場には立っていない。だが、台湾に戻る船を待っている際、戦争の残酷な一面を目の当たりにした。日本の敗戦後、日本にいた台湾人は突如として一等国民になり、衣食が保障された。一方、敗戦国となった日本の人々は仕事を見つけられず、飢えに苦しんだ。物々交換の時代に後戻りし、社会は貧困の苦しみに満ちていた。
台湾に戻ると、周さんは仕事に励み、ついには自分の会社を持つまでになった。引退後は日本海軍にかつて所属した台湾人元日本兵でつくる「台湾台日海交会」の会長に就任し、台日交流に尽力した。
周さんは「太平洋戦争日本海軍艦船喪失一覧図」を宝物のように見せてくれた。戦後、日本に戻った際に購入した日本海軍に関するアイテムを記者に見せ、時折、記憶の中に入り込む場面もあった。「私は志願兵。宮本吉雄の名前で入隊した。日本人の仲間は私のことを日本人だと思っていた」と周さんは語った。
なぜ入隊を志願したのか尋ねると、周さんは「あの頃はばかだった。愛国心のためだけだった」と率直に話す。周りが皆、国家のために若者は立ち上がるべきだと話していたことに影響されたと明かす。
周さんにとって、艦上で起床ラッパを吹いたことは生涯忘れられない記憶だ。体が小さかったことから身体検査に合格するか心配していたという周さん。面接官に特技を聞かれ、肺活量があるためラッパが得意だと答え、合格を勝ち取った。あれから80年。当時支給されたラッパは今でも丁寧に手入れし、大切に保存してある。周さんが吹いて聞かせてくれた起床ラッパの音色は、時代を戦時下に引き戻し、戦火の無情さを感じさせた。