台湾では、戒厳令施行の1949年から、国家暴力の法的根拠となった「懲治叛乱条例」廃止の91年まで、市民の思想や言論が弾圧された白色テロの時代が続いた。無数の家庭が引き裂かれ、深い傷と苦しみがもたらされた。
近年では、過去の政権による人権侵害やその真相究明を目指す「移行期の正義」を政府が積極的に進めており、受難者や冤罪被害者の名誉が回復されてきている。また、白色テロ時代の出来事を題材にしたドラマや映画の制作も増えている。これらの作品には、次世代に悲痛な歴史を伝えたいという思いが込められている。
白色テロ時代、東部・台東県の離島、緑島には、政治犯を収容した教育施設の「新生訓導処」や監獄が置かれた。これらの施設に収容された経験を持つ陳欽生さんと楊田郎さんは、5月に行われたイベントに参加し、再び緑島の地を踏んだ。中央社の取材に応じた二人は、複雑な心境とともに、苦難の歴史が若い世代の教訓となることを望み、台湾の民主主義や人権が得難いものであることを知ってほしいと語った。
イベントは国家人権博物館が、白色テロの受難者やその親族を対象に、5月16~18日に実施。90人以上が参加した。
同博物館が管理するウェブサイト「国家人権記憶庫」によれば、陳さんは1949年生まれのマレーシア華僑。南部・台南市の成功大学に留学するために台湾にやってきた。同大学生だった71年、台南にあった米国広報文化交流局の爆破事件に関わったとの無実の罪を着せられた上に、マレーシア共産党への入党をでっちあげられるなどされ、最終的には12年の有期刑と5年間の公権剥奪が言い渡された。
陳さんは、当時は受け入れることなど全くできなかったと過去を振り返る。「中華民国に対して後ろめたいことは何もしていません。ここ(緑島)に来て2年余りの間は、私は自分自身を諦め、完全に絶望していました。未来が見えず、自分が着させられた罪を受け入れられず、非常に苦しかったです」。
一方で、収容期間中は受難者の仲間に考えを改められたともいう。「あの時そばにいてくれた人には感謝しています。彼らはずっと私を励ましてくれました。そしてある日、私は気づいたのです。自分の身に降りかかった苦しみをどうすることもできないなら、せめて語学を勉強しようと。生き延びて、命の物語を記録する必要があったのです」と語った。
今年3月、緑島の新生訓導処を題材にしたドラマ「星空下的黒潮島嶼」(BLACK TIDE ISLAND)の放送・配信が始まった。収容された受難者がそれぞれの才能を生かし、緑島の医療や農業、教育に変革をもたらしつつ、自らの人生に新たな意味を見出していく姿を描いている。
ドラマを見たという陳さんは、描かれていた絶望や悲哀に強く共感したと話す。刑期を終えて緑島を離れた後、自ら体験した出来事を後世に伝えることに力を注いでいる陳さんは当時、“転んだ場所から立ち上がるべきだ”と自らに言い聞かせ、全ての人々に台湾で起きたことを伝える決意をした。
陳さんは、台湾の人々は一致団結して“台湾が今後も発展し続けること”に寄与できることをするよう期待を寄せている。政治的な争いや、民主主義が破壊されるようなことはあってはならないとし「私の身に起きたような苦難が二度と起こらないことを望みます」と話した。
取材に応じてくれたもう一人の受難者、楊田郎さんは、18歳にも満たないうちに逮捕されたと語る。家に帰れると思い、だまされて署名をさせられたが、それが苦難の始まりだったと振り返る。その後、根拠のない罪状で起訴され、有期刑7年の判決を下されたのだ。
緑島での生活について楊さんは、収容されていたのは頭が良い人ばかりだったとし、服役中に多くのことを学んだと話した。食事の手配を担当していたため、買い出しの際に地元住民と接する機会もあり、新聞を手に入れて国家の動向を知ることもできたという。その経験から「学位のない博士」と自称している。
楊さんは、白色テロの時代には理不尽なことが山ほどあったが、今では皆が自由な魂を持ち、こうしたテーマのドラマを撮ることもできるようになったと話し、さらに「緑島の出来事に関心を寄せてくれる人々がいることに、心から感動しています」と語った。
楊さんは今でも自身の体験を語り続けており、“台湾の民主主義はこうした苦難の上に築かれていることを皆に知ってほしい”と訴えている。