カナダで開催された、北極圏を舞台としたウルトラマラソン大会「6633アークティックウルトラ」(6633)に台湾から参加し、アジア選手として初めて完走した陳彦博(ちんげんはく)さん。長い戦いを終えてバンクーバーで休息を取っていたところを中央社の取材に応じ「幻覚が見えるほど」追い込まれた状態で走り抜いたというレースの様子を語った。
コースは617キロ。時にマイナス40度まで下がる環境を、ランナーは約28キロものそりを引いて進まなければならない。制限時間は9日間で、完走率は3割を下回る。
3年前の大会には興味があったものの、参加する勇気が湧かなかったという陳さん。この辛く長い道のりを“絶えず恐怖に向き合い続ける旅”だったと表した。「大会前日にユーコン準州の州都、ホワイトホースから車でスタート地点の北緯66.33度地点に向かいました。到着した時、もう恐怖が湧いてきていました。気温が氷点下9度から氷点下30度まで下がり、自分が耐え切れなくなるのではないかと怖くなりました」と語る。
陳さんにとって、このような環境下で行われるウルトラマラソンへの参加は初めてではない。それでも「6633」はルート全てが極寒で、吹雪に見舞われることもあることから特に困難だ。加えて他の大会では毎日走った後には休憩でき、時には他のランナーと交流もできるのに対し、6633は休憩がなく、孤独を極める。
「毎日16~20時間くらいは歩きました。睡眠時間は平均して1~3時間ほどでした」と陳さん。9日間という制限時間に加え、“少なくとも”氷点下30度になるため、長時間止まっていると低体温になってしまうのだという。極端な睡眠不足から、幻聴や幻覚も起きたというが「前にも極地でのチャレンジで同じようなことがありました。目の前に大きな甲骨文字が現れたこともありました。今回は先住民の歌が聞こえました」と振り返る。
夜に冷たい荒れ地を進むのは、特に恐怖を感じる。「真っ暗な大地に自分一人。ヘッドライトが照らす、一寸先の地面しか見えないのです」。ある日、10時間ほど歩いた後に吐き気に襲われ、とても気持ち悪くなったと明かす。
そんな時、陳さんはライトを消してみた。すると「空を見上げると、美しいオーロラが出ていたんです。体はたちまち楽になりました」という。「大自然に救われたと感じ、その時分かったのです。私は大地に愛されている子供なのだと」。
一瞬一瞬が生死をかけた冒険だ。「心身の状態を細かく管理する必要があります。例えば汗をかき過ぎないようにして、体温を管理します。毎日摂取するカロリーも計算します」。さらに、そりを止めてから5分で荷物を取り出し、テントを張り、寝袋に入る訓練も必要だという。「そうしないと、凍死してしまうのです」。
一方で、これらの試練はたとえ辛くとも、生命をじっくりと感じ取る絶好の体験だったとも語る。「自分の呼吸や筋肉、精神を深く観察するのです。すると、自分は思っていたよりも力強いことに気づきます。そしてたとえどんなに富や才能があろうとも、蒼茫(そうぼう)たる自然の中では自分はちっぽけな存在だと分かり、世俗的な価値観からも抜け出せます」。真の自由を楽しめるのだという。
陳さんは3月7日、2位でゴールした。7日23時間19分の成績を残した。ゴール地点のトゥクトヤクトゥクでは、主催者が中華民国(台湾)の国歌を流すなか、陳さんは国旗を広げた。「誇りに感じたのと同時に、それ以上に、台湾の輝きを増やせたのが嬉しかったです」。
ゴールを誇りに思う中で、ほんの少し残念なこともあった。ずっと1位をキープしていたのに、最後の日に吹雪に遭遇してしばらく足止めされているうちに、2位のオーストラリアの選手に追い付かれてしまったのだ。「成績は残酷です。1位でなければ、協賛をもらい続けるのは難しくなるのです」。オリンピックやアジア大会などと異なり、政府からの補助金も無ければ、主催者からの賞金もないという。
カナダでは、テリー・フォックスという義足ランナーが英雄視されている。カナダ政府が昨年、次期5ドル紙幣の肖像に決定したほどの人気だ。フォックスは大学在学中に悪性腫瘍の骨肉腫と診断され、右足を切断。その後1980年に義足で毎日42キロを走り続ける北アメリカ横断マラソンを始めた。マラソン中に骨肉腫が肺に転移して断念し、その後、22歳でこの世を去った。
バンクーバーには、陳さんの「小さなファン」が何人かいる。子供たちは、陳さんがフォックスと同じくらい偉大だと語る。実は、陳さんも過去に咽頭がんにかかったことがあり、フォックスと境遇が似ているのだ。
陳さんは、過去にたくさんの冒険家たちが未知を探求してきたから、人類は常に進歩と成長を遂げてきたのだと語る。「探求しなければ成長はない。成長がなければ、生きている実感を得られない」と若い世代にエールを送った。