アプリで読む
ダウンロード

中華民国の主権と「黄埔精神」

2024/07/22 15:51
高雄市で6月16日、中央社記者撮影
高雄市で6月16日、中央社記者撮影

中華民国の主権と「黄埔精神」南部・高雄市の陸軍軍官(士官)学校で6月16日、「黄埔軍官学校」の創立100周年を記念する式典が開かれた。同校は1924年に中国・広州の黄埔で開校。太陽が照り付ける中、式典には同校の学生2000人超が集まった。

式典に出席した頼清徳(らいせいとく)総統は、中華民国(台湾)の生存と発展のために戦ってこそ「真の」陸軍士官であり、その雄志がなければ「偽の黄埔」だと述べた。

頼氏が黄埔について「偽」と「真」に言及したのは、中華人民共和国が最近、黄埔軍校を抱き込み、退役した同校卒業生を引き込もうとしていることが背景にある。

北京当局は1980年代半ばまで黄埔軍校を記念することはほとんどなかった。だが創立100周年に当たる今年は一連の記念行事に台湾の卒業生3000人を招待した。広州の元の所在地で新たな展覧会も開催した。

6月17日、中国の習近平国家主席は、中国の黄埔同窓組織に「愛国的で革命的な伝統」を引き継ぎ、「台湾独立」の分裂主義に断固反対し、「国家統一」を促進するよう呼びかけた。

黄埔軍校が当時、分裂していた中国を統一するのを目的に国民党と中国共産党のメンバーによって設立されたのを考慮すると、習氏の黄埔に対する性格付けに異議を唱えるのは道理にかなわないかもしれない。だが、頼氏は「中華民国の行く先に、黄埔精神はある」と述べた。

▽中国初の近代軍学校

黄埔軍校は1924年6月16日に広東省広州で設立された。初代校長は、後に中華民国総統となった蒋介石が務めた。

卒業生は中華民国の最初の「模範」連隊を形成し、当時の国民党政権に対するいくつかの反乱を鎮圧。1937年に抗日戦争が始まる頃には、中国の師団の大多数が黄埔の卒業生によって指揮された。

国共内戦の終結で1949年に国民党が台湾に移転した後、軍校は1950年に南部・高雄市鳳山区で陸軍軍官学校として再編された。広州の学校跡地は現在では博物館になっている。

1990年代以降、北京の同窓会組織は台湾の軍校の卒業生を度々中国に招待し、軍校の記念行事に参加させている。だが、台湾の国軍退除役官兵輔導委員会(VAC)の厳徳発主任委員によると、今年の100周年記念行事に参加するために中国を訪れた台湾の退役軍人は100人に満たなかったという。

▽統一の道具

黄埔を巡る両岸(台湾と中国)の戦いについて、2人の台湾の学者は中央社に対し、中華人民共和国が黄埔の記念行事を単なる「統一促進の道具」としていることに疑いの余地はないとの見解を示す。

政府系シンクタンク、国防安全研究院(INDSR)の蘇紫雲研究員は、北京の動きを「統一戦線工作に過ぎない」と表現する。台北に拠点を置くシンクタンク、中華戦略前瞻協会の揭仲研究員もまた、中国共産党は台湾の黄埔卒業生を分断し、記念行事のために中国を訪れる人が中華民国に背いて北京当局側に立っているという誤ったイメージを作り出そうとしていると述べた。

頼総統は5月20日の就任演説では、主に1949年に台湾に移転して以降の中華民国の歴史に焦点を当てていたが、6月16日の訓示では、1949年以前の中華民国の歴史にも触れた。「黄埔精神」を引き合いに出すとともに、黄埔軍校とその卒業生が日本に対抗して中華民国を守り、台湾への撤退後に中国共産党に対抗する役割を果たしたことを強調した。

▽歴史的な繊細さ

黄埔軍校のレガシーを改めて示した頼総統の尽力にもかかわらず、米国は歴史を巡る両岸の戦いに過度に関与することに消極的なように見える。高雄での軍校創立100周年記念式典に関連し、バージニア州立軍事学校とノースジョージア大学の米国人職員がリハーサルに参加しているのが目撃されていたが、最終的には6月16日の行進には参加しなかった。

これについて揭氏は、「北京当局をこれ以上怒らせるのはやめよ」というワシントンから頼総統へのシグナルだと解釈される可能性があると指摘する。一方、頼総統の黄埔への賛歌は中国のレッドラインを越えるのを回避したと揭氏は語った。

(葉允凱/編集:名切千絵)

記事原文(英語)はこちら

私たちはあなたのプライバシーを大切にします。
当ウェブサイトは関連技術を使用し、より良い閲覧体験を提供すると同時に、ユーザーの個人情報を尊重しています。中央社のプライバシーポリシーについてはこちらをご覧ください。このウインドウを閉じると、上記の規範に同意したとみなされます。
172.30.142.16